(2)
日本人カップルのような 若者と蘭世 ふたりは漸くルーブル美術館に辿り着いていた
「画家や作家の意図とか歴史的背景とか そんなことはまず考えなくていいんだよ
綺麗だとか 素敵だとか思えるものを じっくりながめればいい 風景画とか 人物画とか
彫像とか。どんなものにでもいえるさ。それってさ、女の子達が
いろんなデザインの服から気に入った一枚を選ぶのと あんまり変わらないんじゃない?」
その台詞が 鮮やかに蘭世の心に残る。
「やっぱ観光客はここはおさえないとねー」
そう言って 『ナポレオン一世の戴冠』、『モナリザ』、『サモトラケのニケ』・・と 有名どころを巡る
・・・そこは ”ドノン翼”と呼ばれる展示エリア。
「あ!これだったら学校の美術室で見たかも!」
そう気付けば・・美術館に親近感も湧いてくる。勿論学校のはレプリカで 本物がここにある。
その後の蘭世といえば
小さな石像の頭部を見て「きゃーこのお嬢さんびじーん!」とか
古代ギリシア・ローマの遺跡から出土したネックレスに「このアクセサリー素敵!!」とか
”連れ”の存在を忘れるほどに あちこちへと蝶のように飛び回っていた・・
ひとしきり堪能して 気が付けば昼をとうの昔に越していた
美術館での興奮をそのまま引きずったような元気な声で若者は蘭世に提案する
「ええい遅れついでだ!ちょっと足を伸ばして外でお昼にしようよ!」
ここで蘭世は突然空腹を思い出すが・・”足を伸ばして”という言葉に躊躇する
気が付けば 私 きっと・・いえ絶対に部下の人たちに迷惑をかけている
「あの・・一緒に来てる人たちがきっと心配しているから このへんで」
そう言って別れを告げようとしたとき、若者はその言葉を遮るように言葉を発した
「ねぇ、君ってさ ひょっとしてどこかのお嬢様?」
若者は首を傾げ 探るような瞳で上体をかがめて蘭世の背にあわせる
ふいに印象深い焦げ茶色の瞳がまっすぐ覗き込んでくる。
「えっ」
突然のその台詞に蘭世はぎょっとし 思わず俯いていた顔を上げてしまった
「図星って描いてある・・だってさ店の前に黒塗りの高級車停まってたし、
身なりだって他の人と少し違う」
「身なりが・・違う?」「うん、お金持ちっぽい」
「・・・」
蘭世は 驚きを通り越しなかばあきれ顔・・
「私はお嬢様なんかじゃないけど・・・黒い車には私を待っている人たちが乗っていたわ
それでも それを知ってて私を連れだしたの?」
「ごめん・・・」
若者は 素直に謝った
「その・・・なんというか ちょっとホームシックというか・・日本人がやたら懐かしくなっててさ
君が日本語喋ってるのみたら すごく嬉しくなって居ても立ってもいられなかったんだ
お金持ちとか そうじゃないとか もうそんなことは全然構わなくて・・・
とにかく 久しぶりに日本の人と日本語で話がしたかったんだ」
アイスクリームショップで反対側の扉から蘭世を連れだしたのも、この分で行けばわざとだったのだろう。
「事情は聞かないけど 君は絶対お金持ちのお嬢さんだ。謙遜なんかしなくていいよ
お嬢さんは 地下鉄(メトロ)なんか乗ったことないんじゃないかなぁ
良かったら折角の機会だし もうすこし・・・どうかな」
彼は笑顔に寂しさをまぜた表情で 控えめに言葉を零す
「・・・」
確かに。
地下鉄どころか 電車にも乗ったことが・・・ない。
きっとカルロと行動を共にしている限り 庶民の足であるメトロに乗る機会は
絶対に訪れない
・・・・蘭世は誘惑に折れてしまった
蘭世は ああ、この人の性格 どっかであったような・・・
アロンか はたまた 日本へ行ったあのアイドル志望な彼か・・・
デジャヴ。
そんなことをつい 考えつつ よろよろと 寂しげな笑顔にほだされて 結局
メトロに乗って
ケーブルカーに乗り継いで
小高いモンマルトルの丘で 午後なお明るい光溢れる庶民と観光客の街で
教会前の階段に座り、ふたり並んでサンドイッチをほおばった
その丘からは パリの町並みが一望できる
ふたりの間には 少しの空間ができていた
それは友達の関係を示すほどの距離で 出逢ってからずっとその距離は変わらずにいる。
そして 別れの時間が近づいて。
誰かが決めたわけではないけれど 遅めの昼食をとりおえた後 なんとなく
そのタイミングは やってきた。
「私ほんとに もうそろそろ帰らなくちゃ」
立ち上がり、スカートの裾の埃を払いながら蘭世は独り言のように言った
「そうか・・そうだよな」
そのとき、若者は本当にすまなそうな顔で。
「連れまわして御免な・・」
蘭世はその顔にどきっとなる。
・・・・いつも隣にいる何処かの誰かさんの たまにみせる寂しげな顔と重なる・・・
「いっ いいの!今日はありがとう・・とっても楽しかったし」
確かに、いつもとは違う体験が出来て それはそれでよかったのだけど
「よかった。僕も今日は本当に楽しかったよ。ありがとう。」
そして彼は それを言うのにきっと勇気をふるったに違いない
今言わなければ きっと二度という機会はない そんなことを考えていたんだろう
「ねえ、また会えないかな・・・君ともっと話がしたいんだ」
そして 若者はふたりの距離を縮めたくて紡いだ言葉だけど それは結果として
ふたりを永久に分かつことになる
”また会えないかな”
落ち着いて周囲をよく見れば その街はカップルの姿で溢れかえっている
漸く、蘭世も彼の考えていることに気づいた その鈍感さに自分でもがっくりとなる
「ごめんなさい・・・私にはそれはできないの」
「恋人がいるのかい?」
蘭世は躊躇うことなく まっすぐに頷く
恋人どころか もう人妻である。
ただ、あまりにも若い年齢だから 左手の薬指に指輪をしていたって
若者のファッションだと思われてなかなか既婚者だとは周囲に見てもらえないけど
若者はあきらかに がっくりとした表情で。それでもめげずに
「・・あのアイスクリームショップまで送るよ」
「ううん! ここで・・そう、ここでさよならしましょ。私のことなら大丈夫」
蘭世の方は、もう一刻も早く ”ふたり”でいることから解放されたかった。
「ありがとう、さよなら!」
挨拶もそこそこに 蘭世は少しの笑顔を残し手を軽く振ると
くるりときびすを返し駈け出した
はやく、はやく 私にとっての日常に戻りたい。
人気のない路地へ駈け込むと そこは小さな噴水のあるエリア 公園のようになっていて
鳩たちが噴水のそばで餌をついばんでいた
蘭世は猫のようにしなやかにその中の一羽へとびつくと 一瞬で捕らえてかみつきその姿を借りる
ホテルへ・・・早く私のうちへ 帰ろう
翼をはためかせ パリで一番高いところにある広場からセーヌ川沿いにあるホテルを目指す
街を覆う空気の上を滑り降りるように軽やかに そして一目散に蘭世は飛び去っていく
(やっぱり せめて名前を聞こう・・今日の記念に)
はじめはお互いに名前は聞かないで置こうと思っていたのだが あまりに思い出深くて
そう決心し若者は駈け去った蘭世を追いかけ始めた。
だが 蘭世が飛び込んだ辻へ若者が辿り着いたときには すでに彼女の姿は
魔法のように消え去っていた
つづく
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