8)
カルロはカミヤ家の大きな屋敷の中、パーティ会場を離れ薄暗い階段を上っていた。
彼は両腕で蘭世を抱き上げており、そのまま黙々と歩みを進めていく。
(・・・)
腕の中では酔いつぶれた蘭世が幸せそうな顔をして自分の胸に頬を寄せ眠っている。
カルロは今夜の出来事について 思いを馳せていた・・・
カミヤ家のパーティへ蘭世を連れて出席したものの、カルロは主催者の娘に
引っ張り回され
(主催者の顔をたてて厭な顔ひとつせず付いていったのだが)
蘭世とはろくに話も出来ずにいた。
ヨーコに連れ廻されてもカルロはそっと蘭世の様子を遠くから窺っていた。
(あの青年が シュン、か・・・)
シュンと一緒にひとつのテーブルを囲んで楽しそうに料理を食べる蘭世の姿を、
カルロは遠くから無言で見守っていたのだ。
(ランゼをあの青年のそばには置いておきたくない・・・)
彼女のあの瞳に映るのは、私だけでいい。
カルロがそう思ったときに丁度屋敷の外から呼び出しもあり、ヨーコを適当にあしらって
一旦会場の外に出てから再びそっと戻ってきたのだった。
机で一人突っ伏している蘭世を見つけたとき、
カルロは気分でも悪くなったのかと驚き駆け寄ったが
どうやら酔いつぶれているらしいことに気づき、意外ではあったが少し安堵した。
「ランゼ。」
そっと上着を着せかけ細い肩を抱いて引き上げるようにして立ち上がらせると、
とろん、とした表情の蘭世と目があった。
彼女は酔って真っ赤な頬で・・気の抜けた表情なのにその上気した顔がなんとも色っぽい。
カルロは思わずなまめかしい表情を見せる蘭世の頬に 人目もはばからず手で触れていく。
蘭世はようやくカルロに気づいたようで・・その途端みるみるうちにその瞳が潤みだした。
「カルロ様ぁ・・・よかったぁーあーん!」
今まで胸一杯に抱えていた不安から一気に解放され、酔いで羞恥心も吹き飛んでいる蘭世は
弾かれたようにカルロへ抱きついていく。
(・・・!)
蘭世の泣き上戸も少し顔を覗かせているようで、カルロの胸に顔を埋めてくすんくすんと
くぐもった泣き声が聞こえてくる。
カルロは蘭世の突然の積極的な態度に一瞬うろたえた。だが、すぐに余裕を見せて
蘭世の肩をそっと抱え、彼女の耳元へ再び唇を寄せささやきかける。
「ランゼ・・少し外で休むといい」
そうしてカルロは蘭世を会場から連れ出したのだった。
二人が会場を出たとき、部下が横からそっとカルロに
”3階の東側に部屋を用意してもらいました”と告げていた。
部下のさり気ない道案内で、カルロはその部屋へと収まったのだった。
◇
部屋は照明が落とされ、その空間に光をもたらすのは窓から見える青い三日月だけだ。
(・・・)
カルロは薄暗いベッドの上。
腕の中に眠る娘を抱え・・・・
そのまま座り込んで、いた。
ベッドヘッドにもたれ、カルロはじっと 酔いつぶれて眠っている
蘭世の様子を見つめている。
いい夢心地らしく ほんのり微笑んでいるような寝顔にカルロはクスッ・・と
笑みを漏らす。
今日のためにしつらえた白いワンピースがよく似合う。
シフォンのストールは取り払われ大きく開いた襟元から・・
カルロの胸が焼け付くほど白く瑞々しい彼女の肌が覗いている。
だが、カルロはまだそれには触れられずに、いた。
蘭世は意識をまだ閉ざしたままだ。
”あの青年から蘭世を遠ざけるには?”
カルロは蘭世の寝顔をじっと眺めながら そんなことに想いを馳せている。
”この娘に私を しっかりと焼き付けたい・・”
カルロは無意識のうちに右手で蘭世の頬へ触れていく。
(・・・)
今までの私なら きっとこの場で迷ったりはしない。
迷わずこの娘をすぐに抱いて自分のものにしてしまうだろう。
無理矢理既成事実を作ってからでも この娘を自分の方へ向ける自信は、ある。
今までの自分だったらこんな状況を好機だとしか思わなかっただろう。
なのに。
何故なんだろう・・・
カルロは愛おしげな仕草で長い人差し指の背で蘭世の小さなあごの先から
頬へとゆっくり触れていく。
薄く色づいた唇に親指でそっと触れる・・・。
奪いたいそこではなく、カルロはそっと蘭世の額へと唇を寄せた。
あまやかなシャンプーの花の香りが ふっと彼の鼻をくすぐった。
カルロはここ数週間の、蘭世とのひとときを思い起こしていた。
家族と共にいる蘭世は明るく、日だまりに咲く可憐な花のようだった。
初めてあったときから”この娘だ・・”と思っている。
だが、それ以上に 蘭世に会うたびにカルロは感じるのだ。
彼女の笑顔や仕草は彼の心にじんわりと温かい光を投げかけてくる。
大人として長い間押し殺していた寂寥感が、ゆっくりと薄らいでいくようだった。
知れば知るほど、この娘しかいないと思えてくる。
私は彼女の身も心も欲しい。
だからこそ。
意識のない蘭世に強引に仕掛けることはしたくない。
”だが、私の想いは知って欲しい・・・そして、誰にも渡したくは、ない。”
抑える心 と はやる心。
カルロの心は部屋の片隅にある豪奢でアンティークな大時計の振り子と共に、
右へ左へと揺れている。
そして彼らしくもなく迷い続け、蘭世を抱き寄せたまま触れられずにいるのだった。
やがて ”時(とき)” は動き出す。
(ん・・・)
蘭世はぼんやりと目を開ける。
目を開けてもなお、視界は薄暗い夜だった。
(ここは・・・どこ?)
未だ夢うつつの蘭世は無意識に窓の方へ首を廻し部屋の中を視線で見渡す。
(・・・)
酔いはまださめていないようで まだ・・まだ状況が掴めない。
さっきまで・・ゆらゆらと揺れて とても気持ちが良かった。
できることなら このまま ずっと眠ってしまいたかった・・・
蘭世はその気持ちよかった感覚を思い出しその余韻に浸っている。
だが。心にかかっていた夢雲が切れて行くに連れ、
現実の状況が頭の中によみがえってくる。
(そう 私は・・・カルロ様と一緒にいて・・抱き上げてもらった??)
それに気づいた蘭世は跳ね起き上体を起こす。
「ランゼ。」
離れていこうとする肩を捕らえやんわりと押し戻す大きな手があった。
ここで漸く蘭世は自分を抱きかかえている人物へ振り返った。
そう。気づけば薄暗い部屋のベッドの上で蘭世はカルロの膝の上にいる。
「あ・・・」
カルロの香りがふうっ と蘭世を柔らかく包む。
今日はいつものシャープな感じではなくそこはかとなく優しく甘い香りだった・・・
蘭世は逃れようとする事を忘れ、彼の腕の中に身体を預けた。
何故か、怖くはなかった。
甘い香りが蘭世の心を落ち着けるのに一役買っていたようである。
そうだ。自分を抱きかかえているのは、最近いつもそばにいる人物だ・・・。
そしてまだまだ意識は酔いに支配されぼんやりとしている。
すこしきついくらいに効いている空調で、部屋はひんやりとしており
彼に寄り添っているのが心地よく思えてしまう。
”ひょっとして まだ 夢のつづき・・・?”
「・・気分は?」
「ん・・・なんだかまだふらふらしてるの。でももう大丈夫です」
蘭世は笑顔でカルロを見上げた。
薄暗い部屋の中、カルロの表情はよく読めない。
だが、その声は短い言葉でもあくまでやさしく蘭世の耳に響いてくる。
「飲みなさい」
いつの間にかカルロの右手にミネラルウォーターが満たされたコップがあった。
蘭世はそれを手渡されると、両手に持ち桜色の唇へあてがう。
こく、こくこく・・と白い喉がカルロの目の前で上下し水を嚥下している。
やがて蘭世はそれを全て飲み干した。
「ああ、おいしい・・・!」
一息つくと笑顔と共にそんな言葉が思わず口をついて出る。
ようやく普通レベルにまで意識が戻ってきた蘭世は、
未だ自分がカルロの膝の上にいることに気が付く。
一気に恥ずかしさがこみ上げ、蘭世は赤くなりながらカルロにぼそぼそと提案をした。
「えっと、あの・・・降りて、隣りに座っていいですか?」
カルロは無理矢理引き留めたりはしない。
”どうぞ”と目配せをし、蘭世は彼の膝から降りてカルロとベッドに並んで腰掛けた。
それでもなお恥ずかしくてちょこん、と内股で座っている。
「今日はもっと一緒にいられると思っていたが・・心細い想いをさせたな」
蘭世は慌てて首を横に振る。
「ううん!気にしないで下さい・・
カミヤさんたらいつもあの調子でみんなを振り回すんだから」
そう言いながら蘭世はカルロを見て両目がハートマークになっていたヨーコを思い出し、
くすっ、と笑う。
その笑みにカルロは少し勘違いをした。
シュンと食事をしたときのことを思い出して笑ったのかと そんな風に見てしまったのだ。
苦笑しながらカルロは控えめに尋ねる。
「・・パーティは楽しかったかな?」
まだ、蘭世はカルロの心の動きに気が付かない。
「えと、やっぱり心細かったけど・・会場に同級生の子がいたから大丈夫でした!」
「同級生・・・シュン とかいう少年か?」
「えと・・・はい・・・一緒にご飯 食べてたんです・・・」
初めは屈託なく答えていた蘭世だが、カルロに問われ素直にYesと答えた直後、
何故か心に重い鉛が落ちてきたような気がした。
”うしろめたさ”という名のそれは、シュンに”今日はカルロとパーティへ来た”と
答えた時にも感じたものだった。
「私がその役をやりたかった」
「えっ」
カルロの目が曇る。
寂しげなその表情に、蘭世は胸が締め付けられる。
初めて会った日にキスを拒んだときも 蘭世はこの表情の虜になっていた。
いつも毅然としている貴男が 時折見せるその寂しげな表情は
私の心を揺さぶってしまう・・・
「カルロ様・・」
「ランゼ。」
カルロは蘭世の頬に再び手を添える。
頬に触れたところから甘い波動が伝わってくる。
美しい翠の瞳に射抜かれ 蘭世はその視線に釘付けになっていた。
「私はお前の隣にいて・・寂しい想いなどさせたくなかった。
そして、寂しいお前を慰める役もあの少年に委ねたりしたくはない」
「あ・・」
カルロの紡ぐ言葉達は、媚薬となって蘭世にしみこんでいく。
(ひょっとして このひとは 本当に・・・?)
”私の、ことを?”
出会ったその日には 容易には信じられなかった。
だが・・・今、ならば。
次第に二人の距離が近づいていく。
そして、カルロは耳元へ口を寄せ そっと囁く。
「ランゼ。私はお前を 愛している」
蘭世の瞳が大きく見開かれた。
”愛している”
耳元から指先までじんわりとその言葉が染み渡っていく。
・・・淡く、そして甘い期待は、裏切られなかった。
「カルロ様・・・!」「・・・」
至近距離で視線が絡み合い・・魔法に掛けられたように蘭世の瞼が降りていく。
そして、桜色の小さな唇にカルロは自らの唇を そっと重ね合わせた。
つづく
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