(7)
蘭世は朝早く目を覚ました。
・・・人の気配を感じたからだ。
「お姫さん、おはよう・・・傷の調子はどうだい?」
この”ハレム”で意識を取り戻してからすでに3日経っていた。
蘭世は至近距離にその声を聞き、あわてて身を起こす。
眠気が一気に吹き飛んだ。
その男はベッドのすぐ横まで来ていたのだ。
「本当は夜中に訪問したかったんだけどね。仕事じゃあしょうがない」
「・・・っ寄らないでっ!」
男は両手に持っていた物をスッと、逃げようと身を引く蘭世の首にかけ、
後ろで器用に一瞬でつなげた。
「・・・え?」
蘭世は自分の首についた物をあわてて手で探ってみる。
そして、横の鏡を見てみると
・・・エメラルドがちりばめられた金のネックレスであった。
「・・・」
男は緩く腕を組み、ベッドの横で蘭世の姿を見下ろす。
与えた宝飾が思いの外似合うその娘の姿を見て、ふっと顔をほころばせる。
「確かに、エメラルドは黒髪に似合うもんだな・・・」
「・・・」
蘭世は俯き横を向いた。
お礼なんかいうつもりもない。
普通だったらこの男からもらった物など捨ててしまうだろう。
だが、その石の色は・・・カルロの瞳の色を彷彿とさせる色だった。
それをこの男が意識したかどうかは蘭世には測りかねる。
だが、とにかくそのネックレスはその色のせいで捨てる気になれないのだ。
くやしいのだが・・・外さずにそのまま身につけていた。
「気に入ってもらえたようだな。」
再び男の両腕が蘭世に伸びてくる。
それに気づき逃げ出そうとする蘭世の肩を、造作もなくかっちりと捕らえる。
ツェットは主がいないのをいいことに、執拗に蘭世にせまってくる。
「”マラー・ベブース”・・・俺も性懲りもない奴だな。
もらえないものは奪うまで、だ」
「その言葉って、どういう意味な・・っうっ!!」
その意は・・・”くちづけを我に与えよ”。
蘭世はそのキスから逃れることはできなかった。
懐かしい香りと共にやってくるその男の口づけは
上等で、蘭世さえもうっかり気を緩めれば引き込まれそうだ。
「もう・・もう嫌あっ・・!お願い、私を放っておいて!!」
懇願したってカルロの元へなど返してくれるわけがない。
だったら、もう放っておいてよ・・・!
心の通わない行為はやはり蘭世に苦しみしか残さない。
唇を解放すると、後ろに回り込んで蘭世を腕の中に囲う。
「・・・っ!!」
うなじから首筋にかけて唇を寄せてくる。
「やっ・・・ぁっ」
それはツェットが見つけた蘭世の弱点だった。
反応してしまう自分が情けない。
悔しさで涙がぽろぽろ零れ出す。
「やだっ!!・・・私にこんなことしてここの主に悪いとか思わないのっ!?」
泣き声で蘭世は強がって必死に訴える。
それでも男は平然としている。
「そんな事を言うならおやじを呼び寄せようか?」
「!!」
蘭世は大急ぎでぶんぶん!と頭を横に振る。
ツェットはニッ と笑う。
「俺はここの親父とは親子みたいな関係でね・・・ 」
「おやこ・・・みたい?」
「実のところは赤の他人。俺は元々ドイツ人だ。
ひょんな事で俺がおやじの命を助けた。だからあのおやじは俺には寛大なのさ」
「?・・・でも、貴男の本当の名前ってドイツの名前じゃあ・・・」
「へえ?覚えていてくれたのか?光栄だな。父がドイツで、母はルーマニア人。
面白いことにカルロの遠縁さ」
蘭世は思いがけない台詞を聞き耳を疑う。
「・・・カルロ様の、遠縁!?・・・」
「ふふ・・・驚いたか? それにしても、お前にはなんでこんなことまで
喋ってしまうのかな・・・」
「!」
首筋に、いつかと同じように強く吸われる感覚。
「お前の事、俺に下げ渡してもらおうかな・・・俺専用に」
「いや!ばかっ!!やだあっ・・・もう、私なんか放っておいてよ!!」
ふるふると首を振り、その腕から逃れようと必死にもがく。
だが力強い腕に阻まれ、再び腕の中へ納められてしまう。
「どうして自分の感覚に素直にならない?簡単なことだ。
そしてこれは当たり前の、ごく普通の行為だ。」
男はそっと耳打ちし、耳へと舌を這わせる。
「受け入れてしまえば天国が待ってる」
「嫌よぉ何を言っているのよぉっ!
馬鹿馬鹿馬鹿っ!!私にはカルロ様だけなんだからあっ!・・あぁっ」
「気持ち良いことは素直に感じてみればいい・・・
相手はカルロでなくてもいいはずだ」
蘭世には、どうしてもツェットが自分の身体だけが目当てで
誘惑しているようにしか思えない。
ただ、傷で高熱を出したあと弱っているのが幸いでツェットも
本格的には蘭世に手を出していなかった。
それでも、少しずつ、蘭世の隙をついてじわじわとその領域を侵害してくる。
噛み付きたくても監視カメラが始終廻っていて迂闊なことが出来ない。
つい意識してしまうから、きっと変身の一部始終映ってしまうに違いない。
それだけは絶対に避けなければならない。
そして、正攻法で行ったってこの男に抗えるわけがない。
では。
「うぅ・・・せなか・・・が・・・」
蘭世はそう言って身体を反らせ苦しそうにする。
「まだ痛むのか!?」
そうやって蘭世はぎりぎりで難を逃れていた。
魔界人の蘭世はもうほとんど傷は癒えていたのだが、
芝居を打ってなんとか切り抜けていたのだった。
午後。
明るい日差しが差し込むその大窓に、蘭世はおでこをくっつけて
下の庭をながめていた。
召使いの女達が部屋の掃除をしている。
コンコン、とノックの音がする・・・が蘭世は返事をしない。
入ってくるのはあの男か召使いの女達だけだ。
扉が開き、ツェットは入ってくる。
それと入れ違いに召使いの女達は部屋を出ていった。
「そんなに外が恋しいかい・・・綺麗な庭だろう?」
ツェットの呼びかけにも蘭世は振り向かず、じっと窓の外を見やっていた。
長く美しい黒髪に、男は少し離れたところからしばし魅入っている。
「私・・・小鳥が飼いたいな。」
突然、蘭世はぽつりとつぶやいた。
「ここで暮らす気になったか?」
「・・・」
蘭世は窓の外を眺めたまま、ひとつため息をつく。
「だって、このままだとここから出られそうもないし・・・」
蘭世の台詞にはある意味が含まれているのだが、そんなことは
ただの人間の(だと思われる)男は知る由もない。
「やっと納得できたようだな?」
「・・・」
蘭世は答えない。
背後から男が近づいてくる。
「あの、白い小鳥がいいな・・・あっ!」
蘭世はあっという間に抱え上げられて・・・ベッドに下ろされる。
「わたしっ・・・嫌!!」
そこでハッとする。
(どうしよう!?ここで嫌がったら、疑われる?!でも・・・)
やっぱり感情は押し込められない。
「帰れなくても、嫌なものは嫌よぉ・・・!」
必死に抗いベッドから降りようとする。
「落ち着きなさい・・。包帯を取り替えるだけだ」
その台詞に蘭世はさらにパニックだ。
「いっ、いいえ!!お手伝いさんにしてもらうからっさわらないでっ!!」
(傷が治ってるのがバレちゃうっ、どうしよう!!)
「・・・そうはいかない。傷の具合も見るんだ。
おとなしくしなさい さもなければ縛り上げる」
「!!」
あっという間に包帯は巻き取られていく。
蘭世は小刻みに震え、嵐が来る覚悟をしていた。
「すばらしい・・・奇跡のようだな」
ツェットは自分の目を疑った。
白い背中に、まだまだあの傷跡が残っていそうなものなのに。
ほとんど目視では解らないほどにまで回復している。
「普通の倍以上の回復力だ。・・・特異体質か?」
「・・・」
蘭世はぎゅっと目をつぶったままだ。
そして両腕を前で合わせ、胸を隠している。
「・・ひあっ・・・」
不意打ちで男は傷の癒えた背中に口づけた。
「やっ・・・きゃああ」
そして、・・・やはり、俯せに押し倒してしまうのだ。
「もう、ダメ・・!カルロ様っ 助けて!!!」
突然耳障りな電子音がぴこぴこぴこ・・・と鳴り響いた。
「・・・ちっ また邪魔か」
ツェットはポケットに手を入れなにやら操作すると
その音は鳴りやんだ。
音で誰が呼んでいるか判るようで、今回は待たせておけない
重要な相手のようだった。
「小鳥は・・・そうだな、明日用意しよう」
男はドア口に立つと、そう言い残してから退出していった。
蘭世は安堵で全身の力が抜けてしまった。
翌日。
男は鳥かごに白い小鳥を入れて蘭世の部屋を訪ねた。
ここの土地の者が明日(ファルダ)と言えばいつになるかは判らない。
ツェットは元々ドイツ人だから日時の感覚は西洋圏の物だった。
だから、明日 といえばきっちり明日なのだ。
「ありがとう・・・うれしいな」
蘭世はここに来て初めて笑顔になった。
「ね、外に出たいな・・・貴男も一緒ならいいでしょう?」
笑顔でそう言われるとツェットもNeinとは言えない。
「屋敷の屋上なら・・・いいだろう」
「おい・・鳥かごも一緒なのか?」
蘭世は鳥かごを持って部屋の外へ出たのだった。
「いいでしょ?うれしいんだもん」
そう言ってかわいらしい笑顔を向ける。
・・・蘭世は内心ドキドキだ。
何しろこの男を笑顔で騙して外へ出ようとしているのだから。
(私って、マフィアの女みたい・・・えへへ)
そして、この小鳥の姿さえ手に入れれば・・・!!
蘭世はツェットに連れられ初めてその部屋から出た。
鳥かごを抱えた蘭世の細い肩を、ツェットは横からしっかり
抱えていた。
「・・・」
思わず蘭世は歩きながら、建物の中をキョロキョロ見回していく。
純粋に興味が勝ってしまうのだ。
意外に明るいその廊下は天井が高く取られていた。
長い長い廊下を歩く。
自分のいた部屋が、どうやらこの敷地の最奥であったことを
思い知らされる。
柱には中庭に咲いていただろう色とりどりの花々が飾られている。
そして、時折黒い布をまとった女達とすれ違うが、
彼女達は一様に伏し目がちに蘭世の横を通り過ぎていく。
入り口に薄い美しい布でできた幕が掛かっている場所が何カ所かあり、
そこを通ると妖しい甘ったるいにおいが流れてくる。
その入り口の向こうはどうも広間になっているようで、何人かの
女達の影が・・・蘭世と同じ様なアラビアのお姫様みたいな格好をした・・
見え隠れしている。
「中が気になるかな?」
蘭世の様子を見てツェットは面白そうに声を掛ける。
「うっ・・・ついつい・・・」
蘭世はハッと我に帰り、顔を赤くする。
「正直でよろしい。あれは、おやじの女達だよ」
おんな、”達”・・・。
蘭世は首をすくめ、顔を左右に振る。悪寒が走ったのだ。
「やっぱり・・。こんな世界、あるなんて知らなかった・・・」
ツェットはそんな蘭世を楽しそうに眺めている。
「男には非常に便利な世界だな。」
「・・・」
蘭世は眉をひそめる。
(・・・でも、もう関係ないもん!!)
−見てるがいいわ。私はここから今日、逃げ出すんだから。
それからは、ただ黙って通路を歩いた。
エレベーターに乗り込み、最上階まで上がる。
重い扉が開き・・・ガラス扉の向こうに、青空が見えた。
屋上は、ムッとした熱い空気に包まれていた。
その場所は、ちょっとした広場になっていた。
遠くにヘリが何台か置いてあるのが見える。
「うわぁ〜暑い!!中と外は大違いねぇ!!」
蘭世はツェットの腕からぱっ!と身を離し屋上の端へと駆けだした。
屋上の物陰にいた数人の兵士が蘭世の動きに反応し素早く銃を構える。
だが。
ツェットが左手を挙げると、兵士達は銃を下ろし退出していった。
人払いだ。
(ま、初めて抱くのが外というのも一興か・・・)
そんな邪(よこしま)なことをチラと男は考えていた。
「私の代わりに、大空を飛べるものね」
そう言いながら蘭世はおもむろに鳥かごの扉を開ける。
中から、そっと小鳥を出し両手に包んだ。
「そいつは伝書鳩にはならないぞ・・・そこの中庭に飛んで帰るだけだ」
ツェットはもう半ばあきれ顔だ。
せっかく捕まえてきた小鳥を蘭世は今から逃がすらしいのだから。
「そう。伝書鳩にはならないわ・・・」
蘭世はツェットににっこり笑い返す。
でも、そのときの笑みは怪しい魔物のオーラを纏っていた。
かじっ!
ツェットの目の前で。
蘭世は鳥の姿になり大空へと舞い上がったのだ。
「!!」
ツェットは突然の事に呆然となる。
普通だったら得意のワイヤーで小鳥など捕まえられるはず。
だが、あまりのことでそのことすらも忘れているようだった。
(今のは、一体なんなんだ・・・!?蘭世は?!)
『レマトヨキト!!』
突然響き渡る不思議な呪文。
男は口を半開きにしている状態で固まった。
その時が止まった男に、背後から近づいた黒マントの男・・望里は
その男の口になにやら白くて丸い物を放り込む。
『タッカナミ モニナ ハタナア〜!!』
直前の記憶を消し去るキャンディだった。
「やれやれ・・・あっ しまった!」
「ランゼ!」
「おねえちゃあーん!!戻ってきてよぉ〜」
鳥になった蘭世は、時が止まる寸前にその魔法の圏外まで飛び立っていたのだった。
想いが池で蘭世のいるハレムの屋上へたどりついた望里達。
だが、一瞬のタイミング違いで蘭世は気づかず空へと舞い上がってしまったのだ。
蘭世の変身をもみ消そうと望里は誘拐の主犯格らしい男に術をかけた。
そうして望里達が棺桶に乗って空中へ浮いたときにはもう、
どこにもその鳥の姿は見あたらなかった。
・・・砂漠から、熱く乾いた空気が望里達に吹きつけていた。
つづく