(5)
パリ・ルーブル美術館 午後1時過ぎ。
「・・・」
カルロは蘭世を連れてここを訪れ、美術鑑賞をしていた。
そして、ルーブル内にあるレストランで昼食をとっている。
勿論事前に席を予約してあり、なんの滞りもなく予定をこなしている。
白い壁の、高い天井で明るい雰囲気のその店は、料理もなかなかの味であった。
勿論一般の客もその店には大勢居る。ただ、ふたりの席は少し皆から離れた場所に
しつらえてあった。だが、それだけが理由ではなく その席の雰囲気は他の客のいる場所とは
明らかに違っていた。それは座っている人物の醸し出すオーラによるものだろう。
・・高貴な人物が持つある特別な雰囲気が そこにはあった。
「あのひと ステキよね・・」
そんなさざめきが 遠慮して見て見ぬ振りをしている一般客達の中から 細く聞こえてくる。
席を空けた蘭世を待つ彼は、軽く腕組みをして 足を組んで ゆったりと椅子の背にもたれていた。
そんなリラックスした格好でさえ 彼の洗練された雰囲気は壊されることがないのだ。
カルロは 席を立った蘭世の帰りを待っている。
コースは一通り終わり、紅茶をふたりで頼んだのだが
蘭世のティーカップに入っている紅茶は とうの昔に冷たくなってしまっている。
(・・・遅い)
蘭世のお化粧直しの時間は、元々長い。
だが、それを差し引いても 蘭世が席を立ってから今までの時間は 長すぎた。
(化粧室が混んでいたのだろうか)
そうも思ってみる。それはあり得ることだ。
もう少し待ってみようか・・と思いながら カルロは長い足を組み替えた。
その時。
(・・・・あれは)
カルロの魔界人としての能力が、ある姿を捉えていた。
何気なく投げた視線の向こう、店の入り口に近い場所の壁の向こうに蘭世らしき存在を感じ、
そこを透視すると 思った通り ぼんやりと蘭世の姿が浮かびあがる。
(もうランゼは店の前まで戻ってきている。ではなぜ席に戻らない?)
思わず、椅子の背からもたれていた上体を起こし背筋が伸びる。
カルロの視界にはもう、店内の様子は映っておらず ただ壁向こうの風景へと
目が釘付けになっている。
蘭世の向かいに・・・男・・若い男が見える。
(男・・・?シュンか??・・・いやそんなはずはない)
背格好と言い雰囲気と言い、一瞬真壁俊に見えたのだが こんな遠い国へ来ているはずもなく
そして次の瞬間にまったくの別人と気づいた。
蘭世が誰か見知らぬ若い男と話をしている。
(・・・)
カルロは目を細め ふたりを注視する。ふたりの間にある空気をも読もうとしているのだ。
今のカルロには、そんな芸当まで成し遂げることが出来た。
つい そのふたりの”意”が気になるのは当然のこと・・・
若い男の”意”に触れたとき カルロの片眉が 上がる。
まっすぐに、若者の心が蘭世に向かっているのが見て取れる。
それはあきれるくらい盲目で。
もう 「恋心」というもの以外には名付けようのない意志だ。
そして訝しいのは若者の意がとても深いことだ・・・・
(一目惚れか?)
それにしてもこの親しげな心は 不自然すぎる。
(・・・・どういうことなんだ)
そして 蘭世のほうは?
(・・・)
カルロはぬるくなった自分の紅茶をカップから一口で飲み干すと スッと無言で席を立った。
少し離れた位置で立っていた部下は そんなボスを静かに頭を垂れて見送っている。
胸元から、サングラスを取り出している仕草がちらりと見えていた。
中座したカルロの様子を見て、給仕のひとりがテーブルへ近づいてきた。
サービスにと紅茶のお代わりをティーカップに注ぐためだ。
カルロのティーカップへ ポットを傾ける・・・
「うわっ!!」
思わず、給仕が叫び声をあげた。
紅茶を注いだ途端、カルロのティーカップは パアン、という音と共に粉々に砕け散ってしまったのだ。
その騒ぎで店中の客の視線が集まり、そして部下達がテーブルに駆けつける。
だが割れたのがティーカップだと気づいた部下達は苦笑しながら顔を見合わせた。
どうやら、ティーカップはカルロに壊されてなお なんとか形を保っていたのだが、
そこへ紅茶を注がれ、堪えきれず崩壊した様子・・
(ボス、相当頭にきてるみたいだな・・・)
(ああ。前もこんな事あったが・・今度こそやばいかもな。)
このときカルロの姿は 店の中にはすでになかった・・・
◇
「おーい!」
笑顔で、本当に嬉しそうな顔で若者が蘭世の元へ駈けてくる。
蘭世はそれを見て店の中へ逃げ込もうかと思ったが、すこし良心が疼いたのと 若者が店に飛び込んできて
彼との昨日の出来事がカルロに露見してしまうことを恐れたのとの両方で 彼女の足は
その場に釘付けになり、でくのぼうのように動かなくなってしまっていた。
若者の笑顔が近づいて来るに連れ、蘭世の顔は表情を失い、蒼白になってくる。
「あのあの・・」
「よかったー!」
蘭世の目の前に辿り着いた若者は息を切らし、なおも溢れるばかりの笑顔を向けてくる。
若者はカジュアルな薄水色のチェックの半袖シャツに濃い茶のスラックスという、
Tシャツとジーンズ姿に比べれば少しは整った風体であった。
蘭世の方は、体に添ったデザインの ベージュのワンピースで アップにした髪に
スワロフスキーと思われる輝きのガラス玉がちりばめられた髪留めを留めていた。
昨日と服装こそちがえど、やはりお嬢様風で洗練されていた。
「やっぱり・・俺さ、君が今日もここへ来るって言ってたの思い出して。
もしやと思って来て正解だったよ。」
「・・ごめんなさい さよなら」
蘭世はもうこれ以上気を許してはならないと決心し、そう一言残してくるりと若者に背を向けた。
「ごめん!・・最後にもうちょっとだけ頼むよ!・・これで最後だから」
”ごめん、最後だから”
その言葉に心が揺らぎ、蘭世の足が数歩で止まった。・・でも、振り向きは、しない。
若者は俯いた彼女の背中に話しかけた・・・それはしみじみと心境を語るような口調で。
「ありがとう。・・昨日はとても楽しかったんだ。有り難う。」
「・・・」
蘭世は黙って背中を向けたまま、コクン、と頷いた。
緊張で 小さな手をきゅぅ・・と握り込んでいる。
「俺、今まででこんなに楽しいことなかったよなーって思って。」
「・・・」
蘭世は黙ってまた歩き出そうとする。思い出の共有は もうできはしない。したくもない・・・
「待って!まだ話が終わってないよ」
鋭く言われ、また蘭世は足止めされる。
「それでさ・・君に好きな人がすでにいるって言うのが 凄く残念だったけど・・仕方ないよな。
だけどすごく忘れられなくて、その、せめて記念に 君の名前 聞いておきたいなって思ったんだ」
蘭世の俯いていた顔が 上がった。
記念にと言うならば そのくらい いいかな・・・
「僕の名前は 江口ハヤテっていうんだ。君の名前、記念に教えてくれないかな?それと・・」
「それと?」
蘭世が短くでも返事をしたことに、若者は喜びを感じているようだった。
「うん、それとお願いだから もういちどこっちを向いて・・・君の顔が見たいんだ」
「・・・」
蘭世はおずおず・・・と ためらいがちに まわれ右をする。
また、若者の澄んだ瞳が蘭世を捉える。
蘭世はまた慌てて目を伏せた。もうこれ以上あちらのペースに巻き込まれてはいけない・・
「ありがとう!・・・嬉しいよ。」
若者が 一歩一歩、近づいてくる。
「それで 名前・・・聞かせてくれないかな」
「・・・らんぜ・・・です・・」
蘭世は消え入りそうな声でそう言った。
「らんぜ、ちゃん ていうの?」
蘭世はあまり返事をしたくなかったのだが・・こればっかりは観念してこくりと頷いた。
自分はランゼに間違いない。
「ランゼちゃんか。可愛い名だなぁ・・教えてくれてありがとう。」
蘭世は名前を可愛いと言われ、少し愛想笑いを返した。
その笑顔に、気をよくしたのだろうか?
「ねえ、もう本当にダメなの?お嬢様で今日も窮屈な思いしていないかい?
また一緒に抜け出そうよ・・君さえ良かったらバルビゾンのほうへ連れていってあげるよ」
バルビゾン。
そこは、フランスの高名な画家たちが住まっていた場所・・・
そう言って若者は蘭世を誘う。・・だが。
”窮屈な思い”
その一言に蘭世は我に返った。
「私はお嬢様なんかじゃないし、別に今の生活が窮屈とか思ったこと無いです。」
ぴしりと言うと、ハヤテと名乗った若者はすぐにすまなそうな顔になった。
「ああ、ごめん・・失言だったら謝るよ」
そうして、頭を掻きながら・・・あまつさえ顔を赤らめて。
「ただ、また絵とかに夢中な蘭世ちゃんの姿が見たかったんだ・・」
「・・・・」
困ったような、寂しそうな。
そんな顔をされたら、おひとよしの蘭世はもう動くことが出来ない。
どうしたらいいの。
何と言ってここを離れれば誰も傷つかずに済むの?
知らず知らずのうちに 彼のペースにまた蘭世は乗っているようで
このままいくと また蘭世は「すこしだけなら」とまで言い出しかねない
それは、昨日の状況ならばそうだったはず。
(どうしよう・・・なんて言えば)
なにか大きなものに絡め取られ もがいているような心境になったとき。
かっちりと、うしろから蘭世の小さな両肩を包み込む手があらわれた。
「・・あ。」
抱き留める手を感じて振り向くと、蘭世のすぐ後ろに カルロの姿があった。
彼はサングラスをしていて表情は判りにくかったが、口元は微笑んでいるように見えた・・・
つづく
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